喜怒哀楽記

喜・怒・哀・楽・を順番にテーマにして雑記書いていきます。

【哀】アンタッチャブルな罪

ツイッターのタイムラインで「刑事コロンボ」の話が出てて、それでひさしぶりに見たいなー、って思った。

 

お父さんとお母さんが好きで、だから私も、子供のころから一緒に見てたからねー。

 

そしたら、この前、ラジオ番組で「刑事コロンボ」のことやってて、解説と一緒にテーマ曲が流れてた。

 

コロンボは、最初に犯人が出てきて、殺人をする。

その犯行シーンがちゃんとあきらかにされたあとで、コロンボが登場して、犯人といろいろからみながら、少しずつ真相をつきとめていく、っていう展開。

最後は犯人が逮捕されるんだけど、コロンボは殺人なんてやった犯人に憎しみをぶつける時もあるし、殺人をした犯人だけどその人を嫌いになれない時もある。

 

そんな、だいたい決まったパターンでつくられてるドラマだけど、ひとつ、ちょっとラストが変わっているのがある。

 

「忘れられたスター」

っていう、作品。

 

刑事コロンボ 32話「忘れられたスター」 // ブログ 刑事ぼろんこ

※アマゾンでDVDの画像が出てこなかったので、人のブログで作品紹介。

※このブログでもネタバレしてるけど、私のこの記事もネタバレがあります

 

かつてスターとして輝かしい活躍してた女優グレースが、いろいろあって、引退みたいに追い込まれて。

でも、年とってから、またスターとして復帰を夢みる。

結婚した相手は資産家のお医者さん。

だから、復帰の資金はぜんぶ夫に出してもらうつもりでいたけど、夫は復帰をぜったい許してくれなかった。

それで、グレースは夫を殺しちゃう。

 

そして、コロンボが登場して、これは妻の犯行じゃないかって疑って、少しずつグレースを追いつめていく。

グレースは、そんなコロンボにイライラして、いろいろ言い訳を重ねていく。

 

コロンボは、グレースの言い逃れができない証拠を掴んでいくんだけど、その証拠探しの途中で、殺された夫がグレースの復帰を拒んでいたほんとうの理由を知っちゃう。

グレースの脳には手術が不可能な血腫があって、いつ破裂して死ぬかもしれない身。

だから激しいダンスなんてぜったいできるカラダじゃなかった。

 

夫を殺したあと、コロンボに追いつめられていくあいだも、グレースの脳の疾患は悪化し続けてて。

最初は故意に犯行をとぼけてて、コロンボにいろいろ言い訳してたけど、そのうち、ほんとうに自分が夫を殺したことまで忘れていって。

 

コロンボがグレースを逮捕できる時になって、グレースは自分の犯行をぜんぜん覚えてなかった。

 

逮捕されなくても、まもなくグレースは死んでしまうカラダ。

だから、グレースをずっと愛してた、かつてのスターのコンビの片割れだったネッドが、

「自分がグレースの夫を殺した」

って、自白する。

自分の犯行の記憶がなくなっちゃってるグレースは、そんなネッドの身代わりの自白を信じて、「自分の夫を殺した」ネッドに涙する。

でも、それすら数秒後にはグレースは忘れてしまって……。

 

コロンボは、グレースの犯行だっていう証拠をつかんでいるのに、グレースを逮捕できなかった。(わざとしなかった)

 

グレースが夫を殺した、っていうことは、第三者の目から見てあきらかな事実。

でも、夫を殺した、っていうことを忘れてしまったグレースの中には、自分の罪の事実がない。

 

罪の記憶がなくなれば、その人の中では、「罪」そのものが存在しない。

 

グレースは、記憶を失うことで、潔白になっちゃった。

客観的にはぜんぜん潔白ではないんだけど、だれも罪の記憶をなくした人に、その人の罪をつきつけれなくなる。

 

グレースは自分がおかした罪の事実に対して、なにひとつ償いの意識をもたないことに、どんな疚しさも抱かない。

だって、グレースは「自分は夫を殺してない」って、心の底から思っているんだから。

 

自分がやったことは、その自分が記憶にとどめておかなければ、「やってないこと」になる。

 

どんなに人を傷つけたり人を殺したりしても、それを覚えていなければ、その人の傷もその人の命の喪失も「他人事」。

 

罪の記憶をなくした人のおかした罪は、とっても最強。

その罪に、もーだれもタッチできなくなる。

アンタッチャブルな罪。

 

もし、客観的な罪の事実によって、その罪をおかした人を罰したとしても、罪の記憶がなくなった当人にとっては、自分が被害者の意識になるだけだよね。

 

「なにもしてないのに逮捕された」

「なにもしてないのに批難された」

「なにもしてないのに」

 

自分のしたことを覚えていれないのは、罪だけが消えるわけでなくて、その人のそれまでの時間が消失しちゃう。

 

第三者の目には、たしかにその人はそこにいるのに、その人の中では自分の軌跡の記憶がなくなってて、その人は自分の中で自分を消してしまう。

 

それは、哀れでもあるけど、とても哀しい。

 

消えた記憶を、外部がどんなに追って、探って、つかまえよーとしても、外部の人がつかまえたそれは、その記憶をもともと持っていた本人にとっては、それが自分のもの、ってこともわからない。

 

自分の記憶なのに、その記憶について他人がどんなに言語化しても、その記憶をなくしまった人には、それが自分のことだとぜったいわからない。

 

わからないから、その罪の糾弾を自分でもしちゃう。

グレースも、グレースをかばってウソの自白をしたネッドに、なんで夫を殺したのかってなじった。

 

自分の罪を、自分のものだとわからなくなると、その罪を掲げて、ちがうだれかをなじっちゃう。

 

この哀しさをコロンボはわかったから、コロンボはそこでグレースには通じなくなった正義をかざさなかった。

グレースを逮捕しないで、グレースを罪人にしなかった。

 

黒い記憶をなくしただれかの白さを、そっとしておく。

これも哀しい慈悲。

 

 

 

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【怒】怒っちゃうから

クリスマス前にラジオで聞いたCM。

 

http://www.youtube.com/watch?v=1BbwjnKsbzk&list=PLBFE20FFF9F573CEC&index=1

 

最初、これ聞いた時、カノジョのほー、重いなー、って思った。

冬の花火に誘ったカレシ。

でも、当日、急にバイト入っちゃって、約束の時間に間に合わなくなって。

 

「泣いちゃうよ」

って、カノジョ。

「終わっちゃった」

って、ひとりで花火見たあとのカノジョ。

 

えー、だって、カレシ、仕事じゃーん。

って、私は思った。

「泣いちゃうよ」

なんて言われたら、カレシだって困るよね。

って。

 

そのあとで、クリスマスの時に、ラジオでリスナーの話を聞いた。

クリスマスデートの約束してたけど、やっぱりそのカレシも自分ではどーすることもできない仕事が入って、ドタキャン。

そしたらカノジョがすごい怒った。

っていう話。

 

私、これ聞いた時も、

「えー。仕事なら仕方ないじゃん」

って、思った。

仕事なのに怒る恋人ってめんどくさいなー、って。

 

べつに、これはどっちがカレシでどっちがカノジョかは関係なくて、逆の場合でもおなじよーに、悲しんだり怒ったりする反応って、私はめんどくさいー、って思った。

 

なんでそこで怒るんだろー、って。

カレシが悪いわけじゃないのに、って。

 

でも、これだから、私って恋愛できないんだね。

 

仕事でデートにこれなくなったカレシに、泣いちゃうよっていうカノジョ、怒っちゃうカノジョ。

そんなカノジョに、「悪い」って思って、焦るカレシ。

 

その相互の感情が、恋愛なんだろーなー、って思った。

 

仕事なら仕方ないよねー、って思うだけ。

それで怒られたら、めんどくさいー、って思うだけ。

 

そんな感情しかでてこないのって、恋をしてないから。

 

恋すると、めんどくさい感情が出てくる。

その感情をめんどくさい、って思わなくなる。

 

めんどくさい感情を交わせるのが恋人。

 

デートのドタキャンする恋人に、

「えー」

って怒っちゃう感情は、愛だよね。

 

ラジオCMでも、花火をみたかったわけじゃない、って言ってるし。

 

会いたいから、会えなくなって怒る。

カレシに怒るんじゃなくて、会えなくなったことに怒る。

 

リスナーの投稿は、グチじゃなくて、ノロケ。

 

なんで会えないの?

って、私も怒る相手、いつかできるのかな。

 

 

 

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【喜】ハッピーエンドのドア

いろんな物語を読んだり、映画で見たりすると、そのラストで「目に見える物語」は、いったん終わっちゃう。

 

でも私は、いつも、その先をいろいろ想像する。

白雪姫やシンデレラは「美しい」っていうだけでひとめ惚れしてくる男と結婚して、それからもずっと幸せだったの?

 

ハッピーエンドの先には、どんな物語があるの?

 

 

風と共に去りぬ (1) (新潮文庫)

風と共に去りぬ (1) (新潮文庫)

 

 

風と共に去りぬ」って小説は、さいごはハッピーエンドってわけじゃない。

スカーレットが中身のない見せかけ王子のアシュレーから目が覚めて、やっとレットへの自分の愛に気づくけど、それは遅すぎて、レットはスカーレットを捨てちゃう。

 

でもそこで、スカーレットは泣いて諦めて反省してるだけじゃないからねー。

欲しいものは諦めない強気で、明日に希望をみいだして、「これで私は終わったりしないからねー」って宣言の終わり方してる。

 

 

スカーレット

スカーレット

 

 

だから、続編も違う作家が書いた。

書きやすい物語だからねー。

続編はスカーレットはしつこくレットを追いかけて、いろいろすごい物語盛り上げて、それで最後はレットを取り戻す。

 

続編できれいなハッピーエンドにもってった。

あの続編は本編の「風と共に去りぬ」を貶めてる、って私は思った。

公募で書かれたらしーけど。

 

その先を想像する気にならない終わり方、だから。

続編は、どれもスカーレットらしい勝気をそのまま強調しただけで、なんの意外性もなくて、最後まで読んでたらレットとめでたしめでたしなんだろーなー、って想像がカンタンにできちゃう。

 

本編は、なんでも手にいれてきたスカーレットが、どーしても手にいれらなかった「アシュレーの価値」の崩壊、っていう虚しい結末に辿りついてしまって、アシュレーの価値に目が眩んじゃってたばかりに、手にいれてたレットを失っちゃう、っていう「交換」の話。

 

南部が戦争に負けて、南部の貴族的な優美な世界が崩壊して。

スカーレットはいちど、そんな「価値の崩壊」を体験してる。

その時、なにもかも失ったスカーレットはタラの土を握りしめて、人を殺しても二度と飢えない、って神に誓う。

 

そして、そこからほんとにスカーレットはどんな手段をつかっても、二度と飢えない。

自分だけじゃなくて、自分が属してる枠の中の人たちも一緒に飢えさせずに、自分の世界の再構築をしていく。

 

それで、その再構築の心の支えだったアシュレーっていう価値を、さいごに崩壊させちゃうんだよね。

また荒廃したタラにズタボロになって立ちすくむ、みたいに。

 

でも、スカーレットは、自分の優美な乙女心を失ったかわりに、本当に現実的な女、として目覚める。

二度経験した価値の崩壊っていうのは、どっちの「価値」もけっきょくは優美な幻想にすぎなくて。

崩壊のあとに、スカーレットは「現実」に立ち向かって、現実の中で生きていく。

 

続編は、そのスカーレットの「現実の価値」だったレットを取り戻した、っていうところで終わっちゃって、そこで価値観の締結。

このあとは、スカーレットはレットと夫婦喧嘩しながらも娘を大事に育てて、安泰な老後を迎えちゃうのかなー。

それとも、スカーレットがまた浮気としかして、レットをそれで怒らせて、っていう不倫物語がだらだら続くのかなー。

 

どっちにしても、読者(私)の興味は、続編の先には飛ばない。

 

スカーレットにとっては思い通りのハッピーエンドなんだから、スカーレットは最後のあの馬に乗って駆けてる時は「喜び」でいっぱいだったのかもしれないけど。

 

 

 

痴人の愛 (新潮文庫)

痴人の愛 (新潮文庫)

 

 

この前、「あそびあい」っていうビッチ女子のマンガ読んで、これ思いだした。

有名な名作だから、あらすじは説明しなくてもいーと思うけど。

 

これ、最初に読んだのは、不登校してた小学生の時だった。

最初は、ナオミがだんだん悪女になっていくの見て、それが単純に面白かった。

譲治さんは、自分のアテがはずれちゃったねー、って、憐れに思ったし。

 

それから次に中学と高校の時にまた読み直した。

この時代の日本の情景の描写がすごい好きだったから。

 

読み直してから、私、これは譲治さんにとってバッドエンドじゃないねー、って気づくよーになった。

 

ナオミはほかの男と一緒にいたら、あそこまで堕落したビッチになったのか、わかんないけど。

ナオミには知性がないから、知性を育てれば、もっと知性的な妻になったか、知性的なビッチになったか、わかんない。

 

でも、譲治さんは、ナオミの「女」の部分を育てただけで、知性は育てなかったんだよね。

だって、最初から譲治さんは、ナオミに知性を求めてなかったから。

勉強させてあげる、なんて言って、ナオミをひきとったけど、あれは自分の都合いい妻になれるぐらいの知性を欲しただけで、大した男じゃないっていう自分の価値に気づかれるほどの聡明さに価値をみいだしてたわけじゃない。

 

肌が白くて西洋的な美女。

っていうのが、譲治さんが女に求めてた価値。

 

だから、ナオミは譲治さんの好みのままに育てられた。

 

最初から西洋の白人女性が好きだった譲治さんには、白人信仰みたいなものがあったよね。

あの時代、西洋人を崇めるっていうのは、黄色人の自分をその下に置く、ってことだから。

 

だから、西洋的美人のナオミが、譲治さんを見下すよーになったのは、譲治さんの潜在的な性的倒錯願望の昇華、だと思う。

 

譲治さんの中に、スカーレットみたいな幻想がふわふわあった。

ナオミは優美な存在だ、っていう。

 

スカーレットには、ふわふわ王子のアシュレーと対比する現実王子としてレットがいたけど。

譲治さんの場合、ふわふわ姫のナオミと対比する現実の女は高慢な女王化したビッチナオミ、だったわけ。

 

譲治さんは、おなじ女、に、ふたつの価値をつけて、おなじ女、を二度手にしてる。

 

最初の幻想の価値の崩壊後、譲治さんはタラの土をにぎるかわりに、地面に這う馬となって、現実の価値、っていうものを手にした。

 

そこには譲治さんの現実的な「喜び」があって、「痴人の愛」っていうのは、ハッピーエンドストーリーなんだ、って私は読み直してから気づいた。

 

ナオミを一度追い出した時が「風と共に去りぬ」のラストシーンだとしたら、「痴人の愛」の小説のラストは、続編の「スカーレット」のラストシーン。

 

でも「痴人の愛」は、その先にもいろいろ想像が飛ぶよねー。

譲治さんとナオミが、あーいう関係でそのまま老後を迎えると思えないからねー。

 

どんな物語が続くのか、小説の最後のページの先にドアがあって、読み終わった途端にそれがスッと開いて、その先になにか景色が見える。

 

そのドアを超えて、あっちにちょっと見えてる景色の中に入り込みたくなる。

 

小説を読み終えた読者にとっての「喜び」は、最後の一行を読み終えた瞬間に、その次の行の文章を想像すること、って思った。

 

 

 

 

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【楽】鍵盤で踊って

これもお父さんと見た映画。

 

ビッグ 製作25周年記念版 [Blu-ray]

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12歳のジョッシュは、好きな女の子がいても、まだいろんなとこで子供扱いされるだけ。

それで、移動遊園地にあったゾルダーっていう占いの機械に25セント入れて、大きくなりたい、っておねがいするの。

そしたら、翌朝、起きたらオトナになってた。

 

っていう、ファンタジー。

 

お母さんに見つかったら、強盗って間違われて家を追い出されて、もー家に帰れなくて。

仕方なく、親友のビリーにいろいろ相談にのってもらって。

またあの占いのゾルダーに戻してっておねがいしたくても、移動遊園地はどこかに行っちゃって。

 

それでニューヨークの役場で、移動先を調べてもらうことにしたんだけど、半年はかかる、ってお役所仕事の返事に途方にくれて。

しょーがないから、戻れる時までオトナとして働くことにして、それで玩具メーカーの面接を受けたら、受かっちゃうんだよねー。

 

子供なんてイヤだ。

早くおおきくなりたい。

 

って思ってたジョッシュは、オトナとして玩具メーカーで働きだす。

そんなジョッシュは、見た目はオトナでも中身はコドモ。(どこかの名探偵と反対)

 

ぜんぜんオトナっぽく振る舞えないまま、ある日、オモチャ屋さんに寄って、そこで床にひろがってる「踏むと音がでるピアノ」を見つけて。

 

これが楽しくて、ジョッシュはオトナのカラダのまま、その鍵盤をいろいろ踏んで遊びだす。

だんだん、ステップでメロディ作ってってね。

 

それをたまたま見てた、ジョッシュが働いてる玩具メーカーの社長さんも、飛び入りしてきて、ふたりで鍵盤ダンス。

 

なんでか動画貼りつけのとこでURL検索してもヒットしないのでURLだけ。

http://www.youtube.com/watch?v=szQFJ0oZ2yE

これねー。

(映画のじゃないけど)

 

ここで社長さんの目にとまって、ジョッシュは「コドモの発想」をいろいろ気にいられ、出世してっちゃう。

 

そして社内の美女スーザンと恋愛して、えっちまでしてオトナの体験しちゃう。

 

夢にまでみた「オトナの暮らし」だけど。

でも、ジョッシュはやっぱり家に戻りたくて、それでやっと見つかったゾルダーにおねがいして、また12歳の少年の世界に戻っていく。

 

恋愛相手のスーザンを一緒にこないか誘うんだけどね。

スーザンは、ジョッシュのコドモっぽい純真さを好きだったからね。

 

だけど、スーザンは、それを断るの。

スーザンにとって、12歳はいちど通った道で、またそこには戻る気にはならないから。

 

スーザンにとって、自分の12歳の世界は、そんなにキラキラしてなかったのかなー、って思った。

だから、純真なジョッシュに惹かれたのかなー、って。

 

ジョッシュは、12歳でいた時の世界で片思いしてた女の子には、「コドモすぎて」相手にされてなくて、オトナになりたくて。

オトナの世界のジョッシュは、そのコドモっぽさを愛されて、でもそーいうオトナでいるより、ほんとのコドモの自分に戻っちゃう。

 

結局、ジョッシュはカラダはオトナになっても、中はオトナになりきれず、コドモのままだった。

 

オトナっていうのは、一晩でなれない。

コドモからオトナまでの時間が、コドモをオトナにする。

その時間がどんなものか、スーザンは知ってたから、ジョッシュと一緒のコドモの世界には戻れなかった。

 

そんなジョッシュがオトナの世界に残したのは、「コドモの楽しさ」。

オトナの視点でいろいろ子供用のオモチャを作っていた会社に、そのままコドモの感覚を持ち込んで、「コドモの楽しさ」をオトナに思い出させた。

 

私も音のでるおっきなピアノで、鍵盤ダンスしたいー。

すっごい楽しそー。

 

っていう、すっごいすっごい楽しい憧れ、ワクワク抱いた映画でした。

 

 

この演奏もすごいよねー。

 

 

BIG : ねぇ、トム・ハンクスさん、ここでペプシコーラを飲んだら、願いがかないますか…?!

 

こんな記事も見つけた。

映画見た人にはわかるよねー(^_^)

 

 

 

 

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